西日本OBサッカー連盟会長 鈴木 南海雄
戦後日本のサッカーは後進国でもあるアジアでも相手にされない状態でしたが、日本のサッカーが1964年の東京オリンピックの強化を目的にドイツから1960年に、のちの「日本サッカーの父」と呼ばれるデッドマールクラマーをコーチとして招いたのがきっかけで彼の素晴らしい力で日本のサッカーが息を吹き返すことになりました。
1969年に第1回FIFAコーチングスクールを開催し全国から多くの指導者が参加し、そこで学んだコーチが次のコーチを育て日本中の少年団が活発に活躍することになり、それに呼応するように負けじと”昔とった杵づか”ならぬオールドOBのシニアの活躍が広まりました。ちょうどその頃1974年神戸に集まった11チーム350名で西日本OBサッカー連盟が立ち上がり、ここ日本で初のシニアサッカーの連盟組織が生まれました。勿論その時には日本サッカー協会はシニアまでは手が廻らず、なんと第1回JFA全国シニアO-60大会が開催されたのは2000年(平成12年)になってからです。
前年の1973年には名古屋500クロウズ、翌年の1975年には浜松怪童クラブといった具合に次から次へとシニアサッカーチームが生まれ、西日本OBサッカー連盟は今では52チーム2200人の文字通り日本一のシニアサッカー連盟になっております。
その活動の原点は『生涯現役』『親睦第一』『勝敗第二』で、疲れたら退場、快復したら出場というルールにも工夫が込められています。パンツの色も60代で赤、70代で銀、80代で金、そして85で紫と、お互いリスペクトと連帯感がもてるべく西日本OBサッカー連盟独自のルールが作られています。
今日の日本サッカーの繁栄の基礎をつくってきたという自負と誇りを75歳になっても80歳になっても持ち続け、まだまだ若い者には負けられないというクラマーコーチが日本選手に誉めたたえた『大和魂』を心に秘め、楽しいサッカー人生がおくられています。